かゆを食べる少女達 お内裏様 かゆを食べる男の子達

<無形民俗文化財情報>

<名称>河原沢のオヒナゲエ(かわらさわのおひなげえ)

<種別及び指定日> 国選択無形民俗文化財(選択日1988年12月1日)

<所有者・管理者>河原沢おひなげ保存会

<問合せ先> 小鹿野町教育委員会社会教育課  TEL:0494-75-0063


<公開情報>

<公開日>毎年4月3日

<公開地>埼玉県秩父郡小鹿野町河原沢、河原沢河川敷(喜多工務店前、国道299)

<公開時間>9:00頃〜12:30頃

<交 通>池袋から西武鉄道の特急で秩父まで約80分、西武秩父駅から西武観光バスに乗り継いでおよそ45分

     上越新幹線・高崎線熊谷駅から秩父鉄道で秩父駅下車、西武観光バスに乗り継いでおよそ40分

<高 速>関越自動車道花園ICから国道140号を秩父方面へ、秩父から国道299号を小鹿野方面へ。(花園ICから約45キロメートル)

<駐車場>この行事専用の駐車場はないので道路脇に駐車するより他はない

<食 事>近くに店はないので弁当持参が良策,

<温 泉>近隣に温泉がある


<小鹿野町河原沢について>

 
埼玉県秩父郡小鹿野町の西端にある河原沢は、名峰二子山や両神山に囲まれた山間地にあって年平均気温は13.2℃である。荒

川の支流赤平川の上流にあたる河原沢川に沿って集落が開けれ、川と平行に国道299号が走っている。この国道は、数km先の志賀

坂峠を越えると群馬県神流町へと通じる「信州・上州道」と呼ばれる古街道である。小鹿野町は平成17年、旧小鹿野町と旧両神村が合

併し、人口約15000人の町となった。

<五節供について>

 江戸時代に5つの式日を定め、節供と呼んだ。その1つは、正月七日の人日【しんじつ】である。「七草(種)の節供」ともいう。その2つ

目は、三月三日の上巳【じょうし】である。「桃の節供」とも言う。これは室町時代以降に娘の幸福を願って雛人形を飾る女の子の祭りで

ある。その3つ目は、五月五日の端午【たんご】である。「菖蒲の節供」とも言う。武家にとっては、音が同じであることから「尚武の節供」

ともいい、武家にとってはふさわしいものとされた。さらに男の子の節句とされ、武者人形・鯉のぼり・粽【ちまき】などが飾られ、後に粽

は食された。その4つ目は、七月七日の七夕【たなばた】である。「七夕祭・星祭り」とも言う。これは宮中の祭りで、乞巧奠【きつこうてん

】として行われていた。女性の裁縫の上達を願って行われた祭りであり、後には裁縫だけでなく種々の技芸の上達を願うようになった。

七夕は農耕的行事とも関係があり、豊作を願い、悪霊や穢れの祓いとしても盛んに行われていた。それを示すものとして、現在でも東

京都稲城市百村の「蛇【へび】より行事」が無形民俗文化財として公開されている。

最後の5つ目は、九月九日の重陽【ちょうよう】である。中国では1、3、5、7、9・・・・・などの奇数を陽数という。一桁の最も大きい陽数

が重なる日であるから「重陽」と言う。「菊の節供・九日節会」とも言う。この日には邪気を払い長寿を祈念して菊酒を飲むことが行われ

た。節供の「節」とは、1年間の区切り目、節目のことであり、「供」とは神々や祖霊に食物を供【そな】えることを意味する。もちろん供え

られたものは、神や祖霊といっしょに、同じ飲食を同じ場所ですることが大きな目的であった。要するに、神や祖霊といっしょに飲食する

ことにより、近い関係(親密な関係)を築き、神や祖霊に主祭者の願いをかなえてもらいたいがために行うのである。

<桃の節供の原義と桃>

雛祭りの起源は平安時代だとされる。雛や調度品を飾り、菱餅、白酒、桃の花を供えて祭る。中国では三月三日あるいは三月の上巳

の日に、水辺に出て禊【みそぎ】や祓【はらい】を 行い宴会を催して祝っている。日本の雛祭りは、中国のこの行事に由来していて「日本

書紀」には曲水の宴の記述がある。これは、三月の上巳の日に開かれ、後には三月三日に統一されたが、天皇はこの日に水辺に行幸

し宴を行い詩会が催されたという。奈良・平安と時代を経るごとにますます盛大になり、清涼殿の庭に曲がりくねった小さな流れを作り、

その両側に文人達が座し、水に浮かべられた酒杯が自分の前を流れすぎないうちに歌を詠み杯を干すという風流な宴が行われた。

これが「曲水の宴」の概略であるが、その意図するものは、水の精霊に対する祭りであり、しらずしらずの内に身に染み付いた穢れを水

の浄化力によって除去し生命力の復活を図ろうとするものである。またこの日に、人形【ひとがた】を感部にすりつけ息を吹きかけ、これ

を水に流す習俗も行われた。後に、幼女の遊び道具としての小さな人形と、上巳の祓いの人形【ひとがた】が結合し流し雛となるのであ

る。中世以降は流し雛ばかりではなく、飾り雛も作られ次第に立派なものとなっていった。江戸時代になると、宮廷の階層を真似たひな

壇をつくり華やかに飾り付けた雛祭りとなっていくのである。

雛祭りには、白酒や蓬餅(菱餅)、桃の花が供えられる。ところで桃であるが、中国黄河上流の陜西省、甘粛省の大高原地帯(6000〜

2100m)を原生地とし、 農耕が始まると同時期に栽培された作物で、太古神農時代から薬用または食用として、花木として重用されて

きたのである。BC1〜2世紀ごろシルクロードを通って、ペルシヤ、欧州に広まった。日本に伝植したのは、「古事記」に神代に桃があっ

たとの記述があるので太古に渡来したと考えられている。

中国では、桃は邪気を払う仙木とされ、漢の武帝に三千年に一度実るという桃の実を献じたという西王母【せいおうぼ】の神仙伝説は桃

の実が仙果であることを示している。また桃の花については、武陵の桃花を浮べ、流れ出る水を飲めば三百歳の寿を保つと言う晋の陶

淵明【とうえんめい】の武陵桃源【ぶりょうとうげん】の故事もあり、これにあやかって、日本では桃の花弁を浮かべた酒を延命長寿の桃

花酒として尊ぶ。孫悟空の物語や、桃太郎の童話でも桃は親しまれている果実である。

ところで、江戸時代以前の桃は重要な菓子の1つであったが、小型で果肉は硬く甘味も少なく、花木としての利用に重点が置かれてい

た。明治になって天津水蜜桃の導入後、品種改良が重ねられ今日の美味しい桃となったのである。現地中国の桃は、種類も多く、小粒

ではあるが見た目以上に美味しい。

<河原沢のオヒナゲエについて>

河原沢のオヒナゲエ(お雛粥)は,月遅れの毎年4月3日に小学生たちと幼稚園児によって行われる野外での共同飲食を伴う雛祭りの

行事である。3月31日ころに子供たちが河原沢川の川原に集まり,円形に石を並べて囲いを作る。囲いであるが、最初の頃は囲いを作

らず、気が合うもの同志がかまどを作り粥を作ったようである。昭和49年ごろより気が合うもの同志の男女別の囲いが作られるようにな

った。昭和60年には、男女別の囲いがくつついて8の字の形になった。男の囲いには全ての男の子が入る、女の子も男子と同様でか

まども別に作られた。昭和61年には少子化の影響もあって、はじめて男女一緒の囲いの中で行事が行われるようになり今日まで続い

ている。子供達が運べる人頭大の石を2〜3段に積み重ね石囲いが作られる。北側に雛人形を飾る大き目の平たい石が組まれ、南側

には竈【かまど】が二基石組みされる。これは「天子南面」、すなわち天子は南側を向いて座るということに根拠があるが、男女雛が逆

並びである。「天子南面」の場合は、天皇は太陽が昇る側(向かって右側)に座るのが原則であるのであるが。この並び方は、地域で差

異があって統一されていないのである。結婚式で新郎と新婦の並び方は、向かって右側には新婦がいる。

先に、北側に雛人形を飾る大き目の平たい石を組むと説明したが、南側に組んでいる年もあるようである。年により、同じ川原ではある

が石囲いの場所が数十mほどの移動しているのが、過去の写真により確認できる。これは前年の川の増水に伴う川原の変化に影響さ

れているようである。川原が狭くなれば、より広い川原を選びそこで行事を行う。

各年の写真で推察するに、どうも、川の流れを背景にするように設置されているようである。これは、先に述べたように、水辺に出て禊【

みそぎ】や祓【はらい】を 行い宴会を催して祝うという中国古来の上巳の節供に合致するようである。河原沢のオヒナゲエは,子供たち

がお雛様とともに一日川原で粥を炊いて食べながら遊ぶ野遊びの習俗を残し、かっては、災厄を雛に託して川に流すため古い雛人形

を川に流したといわれている。

3日の午前9時ごろ,自分用の椀と箸と米を持って川原に集まり,男の子達はお粥の鍋の火の番をし、女の子達は味噌汁の具に入れ

る葱・油揚げ・椎茸・豆腐・わかめなどを切ったりして味噌汁を作る。集まった小さな子供たちは、お粥が炊けるまで川に石を投げたりし

て遊んでいる。お雛様は、保存会の南家から借りてくる。これは、明治十一年、女児誕生を祝って南家に贈られたもので衣服はだいぶ

ん古くなっているが、顔かたちには品格がある。南家に上級生の女の子三人が借りに行き、そのまま、石囲いの祭壇に飾り、菱餅(もち

米に蓬、黍、栃を入れて搗いたものをひし形に切って三つ重ねしたもの)や桃の花、梅の花をお供えする。午前11時過ぎ、粥と味噌汁が出来上がり、女の子たちによって

内裏雛に粥、味噌汁などが供えられる。その後は、上級生達の手によって、粥と味噌汁が手際よく配られ、石囲いの中に敷いた花ござ

に座って、おしゃべりしながら和気あいあいと自分達だけの雛祭りを楽しむのである。

                                    
(「川原沢のオヒナゲエ」小鹿野町教育委員会発行より一部抜粋)


<NIA取材記>

ここ神奈川県川崎市から埼玉県秩父郡小鹿野町の河原沢まではかなりの距離がある。午前9時からの公開ということで、時間の余」

裕をみて4時30分に車で出発した。まだ日の出まではだいぶん時間があり、あたりは真っ暗で道路にはほんの数台しか走っていな

い。今日はナビもあるし、実はナビが故障してしまって新品を買おうか修理しようかと2月ほどナビなしで動いたのだが、地図を片手に

とても苦労したのだった。結局、修理してもらって今日の取材に間に合ったのだ。本当に、ナビはドライブの必需品になってしまった。

でも取材には地図が全くいらないわけではない。それは道案内としてではないが。民俗文化財は地形や環境や産業と密接な関係が

ある。私は、撮影する民俗文化財と自然とのかかわりを出来るだけ映像に残す配慮をしている。子供たちの背景には川が流れ、山々

が必ず映っているようなアングルで撮影する。

撮影構想は、現場の地図から始まる。そして現場について具体的な撮影の流れを考える。そうすると、取り残しが極端に少なくなるの

である。また作品の収まりがよくなって編集がスムーズにいく。

さて、ナビの話しからだいぶん逸れたが、渋滞もなく快適に車はすんなりと目的地付近へ到着できた。時計は7時20分をさしていた。

さて、現場はどこだろう、河原沢の河川敷といっても、河原沢川は長いのだからな。ここは山間部で人家は少ない。

そのうえ早朝だから誰も外に出ている人がいない。ああそうだ、事前調査では前日までに石囲いを河原に作るとあった。それじゃ石囲

いを探せばいいんだという方針の下、車を止めつつ先へ先へと登り勾配を探したがなかなか見つからない。外は氷点下3度、寒い。

人に聞いた方が良策だと、さらに方針を転換した。ここから河原沢だというところまで引き返したところに喜多工務店という建物があっ

た。アツ、人がいる。「ああ、助かった」と早速、場所を聞いてみた。「すぐ下だよ」と予期せぬ返事に、下を覗いて見る。河原沢川は国

道299号より15mほど下を流れているのである。ああ、あった。石囲いがあった。

9時ごろ、子供たちが三三五五集まってきた。さあ、撮影開始だ・・・・・・・

  河原にて お内裏様と オヒナゲエ そら青くして 桃の花咲く                      理事長 
2009.4.11

味噌汁 石囲いの中で おかゆ
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取材日:2009年4月3日

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動画と音声は、自動的にスタートしますが、容量が大きいので30秒程の

時間が必要です。先に下の文化財内容説明をご覧ください。

公開日時は、変更になることがありますので

事前に確認されてお出かけ下さい。