泣き崩れる静御前 義経と静御前の再会 寿三番叟

<無形民俗文化財情報>

<名称>「秋川歌舞伎」(あきがわかぶき)

<種別及び指定日>東京都指定無形民俗文化財(指定日2000年3月)

<所有者・管理者>秋川歌舞伎保存会

<問合せ先> 秋川歌舞伎保存会 電話 090-5789-1723

   

<公開情報>

<公開日>毎年2月3日

<公開地> 大悲願寺境内(東京都あきる野市横沢134)

<公開時間> 大悲願寺節分会奉納公演・午後2:00頃〜



<公開日>毎年9月9日

<公開地> 二宮神社境内(東京都あきる野市)

<公開時間>宮神社祭礼(しょうが祭)公演・午後5:00頃〜



<公開日>10月第1または第2日曜日

<公開地> 秋川キララホール(東京都あきる野市秋川1-16-1)

<公開時間>東急あきる野公演・午後1:30頃〜



<公開日>毎年11月3日(文化の日)

<公開地> 川崎市立日本民家園内、旧船越の舞台 (神奈川県川崎市多摩区枡形7-1-1)

<公開時間>川崎市民家園公演・午後1:30〜午後2:45

<交 通>小田急線・向ヶ丘遊園駅南口下車、徒歩13分

<駐車場>有料駐車場(50台程度)がある

<食 事>弁当持参が良策

<温 泉>調査中

<宿 泊>調査中



<秋川歌舞伎の内容説明>

(歌舞伎の始まり)

 徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開いた慶長8年(1603年)の春、「出雲お国」と名のる女が京都で始め、京都中で人気を集

めた「かぶき踊り」が歌舞伎の歴史の始めであるとされている。「お国」は、最初の頃は「ややこ踊り」の踊り手として記録に登場していて

、やがて「念仏踊り」を始めたという。その頃までは、「かぶき」という言葉は「お国」の芸能にはない。

当時の盛り場の新しい流行の風俗に「茶屋」があった。その内容は、多くの女たちを抱え、客の酒の相手と売春の求めにも応じた遊女

屋であった。「お国」の舞台が「かぶき踊り」と呼ばれるようになったのは、「茶屋遊び」という芸能を演じてからである。

能舞台上に茶屋を設定し、男装した「お国」をはじめとする女達が客として現れる。男たちが逆に女装してお国等と酒盛りの場面を演じ、

余興として踊りをおどるというものであった。

こうした男女を逆にした装いや踊りや演技を当時の人々は「かぶき」といった。「かぶき」の意味は、異端・異様ということである。

まさに異様であった。

(お国歌舞伎から若衆歌舞伎へ)

「お国かぶき」はいくつかの段階を経て変化していくが、「能」を仲介として神楽の構成と精神を受け継いでいる。

「お国かぶき」とならんで、もうひとつの歌舞伎の原型が「若衆歌舞伎」である。

「若衆歌舞伎」は「女歌舞伎」と平行に行われていたが、 「お国」たちの「女歌舞伎」は風紀を乱すとの理由で、寛永6年(1629年)、幕

府の命令で禁止されてしまった。また「お国歌舞伎」の後継者であった「遊女歌舞伎」も禁止され、これに代わって脚光を浴びたのが少

年達による「若衆歌舞伎」である。

「女歌舞伎」が女色を売り物にしていたのに対し、「若衆歌舞伎」は男色を売り物にしており、売春という点では共通であった。

芸は「女歌舞伎」とはかなり異質であり、踊りだけを組み合わせるとか、能・狂言・幸若舞・舞楽・獅子舞・人形などの芸と踊りを組み合わ

せるなどであった。また、少年たちの身の軽さを生かして軽業や見世物芸なども取り入れられた。「女歌舞伎」にあった、「茶屋遊び」も「

若衆歌舞伎」でも演じられたが、「女歌舞伎」の人気筋は男姓であり、「若衆歌舞伎」は人気筋が女性であることの違いもあって、かなり

の変更が加えられた。

「お国歌舞伎」が元禄時代の京都・大阪を中心とする上方歌舞伎につながっていくのに対し、「若衆歌舞伎」は元禄時代の江戸を中心と

する江戸歌舞伎に直接連なっていく。

(若衆歌舞伎から江戸歌舞伎へ)

 「若衆歌舞伎」もまた「女歌舞伎」と同じ理由で承応元年(1652年)前髪立の少年が舞台に上がるのが禁止された。このため、役者は

月代(サカヤキ)を剃って舞台に上がることになった。このとき女の役をする女形がうまれ今日に至っている。これを「野郎歌舞伎」といい

、以後、踊りや物まね芸から始まった歌舞伎が演劇の形を次第に整えていくのである。

幕府公認の劇場での興行が行われるようにもなり、京都・大阪では坂田藤十郎が和事の演出を、江戸では初代市川団十郎が荒事の

芸を確立した事もあって、元禄時代に入ると歌舞伎は第一期の黄金期を迎えることになる。

(人形浄瑠璃について)

 人形遣いの歴史は古い。これは宗教にも結びつき日本人の心に深く根差している。その根源は隣国の中国にあるが、今回は人形浄

瑠璃に的を絞って記述する。三味線、節がついた浄瑠璃と操る人形が一体になった「人形浄瑠璃」は慶長年間(1596年〜1615年)に

は民衆の前に登場していたと言われているが、明暦3年(1657年)正月18日午後2時ごろおきた火災(振袖火事)は2日間、あちこちに

飛び火して江戸市中はもちろん、江戸城の本丸・二の丸・三の丸も焼き尽くし、将軍綱吉も東叡山や川越への避難を考えたほどであっ

た。江戸には食料がなく、諸大名の屋敷も多数類焼したため領国に帰国させたり、本年度の参勤交代を免除された大名も16あった。

類死者10万2000人ほど、日本橋をはじめとする多くの橋も焼け落ち、移動も出来ない状態であった。当然、復興には長い年月がかか

った。

したがって、江戸での「人形浄瑠璃」の興行は衰退してしまい、必然的に大阪が興行の中心地となった。貞享元年(1684年)には初世「

竹本義太夫」が「竹本座」を大阪に創設し、作者には「近松門左衛門」を得て竹本座の全盛期を迎える。「竹本義太夫」の弟子の「豊竹

若太夫」が独立し「豊竹座」を始め、芸風の違いが出て、お互いに競い合い、18世紀半ばまで繁栄を続けた。

元禄16年(1703年)に近松門左衛門作の『曽根崎心中』が公演され、これが大当たりすると、歌舞伎熱は下火となっていった。

(歌舞伎の隆盛)

低迷した歌舞伎は、その打開策として人形浄瑠璃の脚本を取り入れることで盛り返しを図った。人形浄瑠璃を歌舞伎化したものを「義太

夫狂言」または「本丸歌舞伎」と言うが、正徳5年(1715年)初演の近松門左衛門作『国姓爺合戦』が人形浄瑠璃で大当たりすると、す

ぐに歌舞伎として公演され京都・大阪・江戸の何れの座でも大当たりをとった。この傾向を決定的にしたのが、延享3年(1746年)から

続けて上演された人形浄瑠璃の三大傑作『菅原伝授手習鑑』、『義経千本桜』、『仮名手本忠臣蔵』の歌舞伎への導入であった。大変な

大当たりで、今日でも歌舞伎の最重要演目となっている。歌舞伎は、江戸幕府のうしろだてもあり、年の収入が千両以上になる役者も

出るようになった。人々はこのような役者を「千両役者」と呼んだ。

これら歌舞伎の大当たりは、一方では人形浄瑠璃の衰退につながり、明和年間には、大阪の「豊竹座」「竹本座」が相次いで退転してし

まった。人形浄瑠璃は明治になって「植村文楽軒」によって復興されたが、人形浄瑠璃のことを「文楽」と今日呼ぶのは彼の名前に由来

している。

(秋川歌舞伎あきる野座について)

 あきる野市にある二宮神社の神楽師の舞を発祥とする。二宮地区で長い間続けられてきた二宮歌舞伎の伝統を継承する農村歌舞伎

を伝承するものである。

最盛期は大正の終わりから昭和の始めにかけてといわれている。年間に300回ほどの興行を行っていた一座があったほど、歌舞伎の

人気が高かったが、戦後は、ほとんどが振るわなくなった。平成4年、地域の子供たちに農村歌舞伎を伝承させて欲しいという要望から

、最初は「秋川子供歌舞伎」として再興された。その後「秋川大人歌舞伎」も旗揚げをし平成12年3月には東京都指定無形民俗文化財

となり今日に至っている。

あきる野座は、義太夫狂言(人形浄瑠璃の演目を歌舞伎が取り入れたもの)の3代作品の中の「義経千本桜」2段目、伏見稲荷鳥居前

の場の公演は多い。



(義経千本桜、2段目、伏見稲荷鳥居前之場の内容説明)

 義経千本桜は5段からなり、兄の源頼朝と不和になり、逃亡する義経と、滅んだはずの平家の武将が、実は生きていて再挙を図ると

いう話の大作である。作者は二世竹田出雲・並木千柳・三好松洛の合作。初演は人形浄瑠璃で1747年11月、大阪竹本座。

歌舞伎では1748年5月、江戸中村座で初演された。


 都を落ち、大和路を伏見稲荷までたどり着いた義経一行に、愛妾「静御前」も追いつき同道を願う。しかし、義経は許さず、初音の鼓を

形見に与えるが、それでも聞き入れぬので、静を桜の木に縛り付けて鳥居の中に去っていく。

一人残された静が身悶えていると、土佐坊正尊の家来の早見藤太(歌舞伎では実名を少し変えて用いる、笹目忠太のこと)が静に狼藉

しようとしたとき、義経の忠臣、佐藤四郎忠信が現れて早見藤太を踏みのめす。

陰でこの様子を見ていた義経は、忠信に源九郎の名と着長を与え、静を忠信に託して九州豊前の尾形に身を寄せるため摂津大物浦へ

と急いで行く。

実は、佐藤四郎忠信は狐の化身であって、顔の隈取も特異である。狐の所作もあり、最後の「飛び六法」での入りは、さすがは歌舞伎

である。

                                                       

<NIA取材記>

 この撮影は、2008年11月3日に行った。会場の川崎市立日本民家園は、文化の日のイベントとして無料開放し、秋川歌舞伎の公演

をここ数年間続けている。NIAは、無形民俗文化財の保存と広報の関係から、「地の芸能をご当地で撮る」ことを原則にしているが、今

回は撮れるものは一刻でも早く取材し公開しようということで撮影した。日本民家園での公演は、これから先も続くとは限らない。

10年後の第2回目撮影は、ご当地、二宮神社(東京都あきる野市)で是非行いたいと思っている。

さて、最近は歌舞伎や人形浄瑠璃の撮影が続いている。これらの撮影は屋内の場合もあり、だんだん寒くなってきた昨今ではありがた

い。日本民家園の公開は屋外であったが。

秋川歌舞伎は、子供歌舞伎と大人歌舞伎にわかれ、首都東京での唯一の農村歌舞伎の伝統継承を続けておられ、上は70歳からの9

0名ほどの座員からなると聞く。人形浄瑠璃から歌舞伎化された義太夫狂言の3代作品として、赤穂浪士の討ち入りを題材とした「仮名

手本忠臣蔵」、菅原道真の左遷にまつわる事を題材とした「菅原伝授手習鑑」、源義経の都落ちを題材とした「義経千本桜」があるが、

今回の公演は「義経千本桜、二段目、伏見稲荷鳥居前の場」であった。

義経と静御前との再開と別れの泣き場や、義経捕縛のため頼朝が差し向けた逸見の藤太の滑稽な所作の笑いの場、義経の忠臣佐藤

忠信が突然現れて静御前を助ける場(佐藤忠信は狐の化身、伏見稲荷鳥居前の場は、そのことを暗示している)、佐藤忠信の「飛び六

法」などの見せ場が多くあり、素人歌舞伎ながらその演技力は素晴らしかった。

かつらや衣装などは、座員の手づくりという事である。一口に民俗芸能の保存伝承と言えども、多くの人たちの下支えがあってこそ出来

る事である。

                                                          2008年11月11日記す  理事長

逸見の藤太と家来 旧船越の舞台(国指定重要有形文化財) 義経の忠臣佐藤忠信
〒216-0003 神奈川県川崎市宮前区有馬 6-8-14  第1すみれハイツ201  TEL&FAX 044-853-3839
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取材日:2008年11月3日

動画は Windows Media Player でご覧いただけます

動画と音声は、自動的にスタートしますが、容量が大きいので30秒程の時間

が必要です。先に下の文化財内容説明をご覧ください。

公開日時は、変更になることがありますので事前に確認されてお出かけ下さい。