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取材日2007年1月14日
道祖神の仮宮 点火を待つサイト 枝に刺された五色の団子

<無形民俗文化財情報>

<名 称>大磯の左義長(おおいそのさぎちょう)

<種別及び指定日> 国指定重要無形民俗文化財(指定日1997年12月15日)

<所有者・管理者>左義長保存会

<問合せ先>
大磯町教育委員会生涯教育課  TEL 0463-61-4100

        大磯町観光案内所
 TEL 0463-61-3300

<出版物>「大磯(下町)の左義長」 大磯ガイドボランティア協会(大磯町経済観光課内、TEL 0463-61-4100
)、600円

      「左義長と由来」「大磯左義長を探る」 大磯ガイドボランティア協会

   

<公開情報>

「大磯の左義長」は、1月14日に行われる火祭りだけを言うのではない。以下に一連の行事をご案内する。

言うまでもないが、クライマックスは14日の「セエトバレエ」と「ヤンナゴッコ」である。

<公開日>

12月8日、「一番息子と目一 つ小僧」 時間は地域により異なるのでお問い合わせ下さい

1月11日〜1月13日、「お仮屋、ななとこまいり」 時間は地域により異なるのでお問い合わせ下さい

1月14日、「セエトバレエ」、「ヤンナゴッコ」 

      セエト作り:午前7時ごろから始まり、午前10時ごろには終る。

      仮宮作り:大北地区の道祖神社では道祖神の仮宮作りが午前中行われる。午後1時ごろから神事があり、終了後すぐに

              海岸の大北のセエト前に据えられセエトバレエを待つ。浅間町の浅間神社でも同様のことが行われるが、仮宮

              の完成は大北よりもだいぶん遅く、海岸に運ばれるのは午後4時ごろとなる。

              仮宮は木製のソリの上に乗せられ、縄でソリと一体化され固定される。仮宮は、内部が見えないように全部を

              縄で編みこむ。4人でやっても1日はかかる。そのため最近は7.5.3編みをする所もある。

      セエトバレエ:午後7時、9基のセエトに一斉に点火される

      ヤンナゴッコ:セエトに点火された後、すぐに始まる。本年は、大北、浅間の2地区の仮宮が参加した。午後8時ごろ終了。

<公開地>北浜海岸(神奈川県中郡大磯町大磯)及びその周辺地区

<交  通>JR東海道線大磯駅下車、徒歩10分

< 車 >西湘バイパス、大磯東ICで下りる

<駐車場>北浜海岸近くには、県営の有料駐車場があります。第一、第二の2つある。(時間制限なしの一定料金)

<トイレ>県営の有料駐車場の近く、及び北浜海岸のバイパス道路下側にもあります。(無料)

<食  事>弁当持参が良策です。



<大磯の左義長の内容説明>

(左義長の起源)

中国において、明時代(557年)に仏法が印度から伝わった。明帝は、五岳の道士等を集め仏教と道教の術比べを行った。

その術比べとは、1つのテーマを与え問答を行わせるものであった。ところが、仏教が勝ち、明帝は「左義長れり(さぎまされり)」と仏

教を賞賛したと伝えられており、以来、仏教は唐土左義長と言われるようになった。

(わが国の差義長)

 
「左義長」は、もともとは平安時代、宮中で行われた火祭り行事の呼び名で、御所の清涼殿南庭に青竹を三本立て、それに扇を結

び付けて燃やし、短冊、古書や書初めなどを焼いたといわれる。これは正月15日に行われたと伝えられている。


(大磯の左義長の名称の由来)

 
大磯は背後に低山を前には相模湾の雄大な景色が一望でき、また気候が温暖であることから、政財界人の別荘になった地域でも

ある。吉田茂元内閣総理大臣の別荘あとは、今もここ大磯に残っていて、近く県が買い上げて保存するそうである。

初代内閣総理大臣の伊藤博文も明治後期に大磯に居を構えた。その側近によって「左義長」という言葉が使われ始めたという伝承が

ある。


(左義長の別名)

 
民間では鎌倉時代、門松、お飾り、書初め等を焼き、その火で餅や団子を焼き疾病除けにし、火が燃える様をはやし「ドンド・ドンド」

という事が、いつの間にか「ドンド焼き」と呼ぶようになったと言われる。

左義長の呼び名は他に色々ある。サイト、セエト、ドンド、サンタロウヤキ、トンドヤキ、サイトウバライ、ホッチョジ、ドーミドンヤ、セエト

バライ、セエトバレエ、ダンゴヤキ・・・・・。地元では「左義長」よりもこれらの名称が使われることが多い。


(道祖神)

 「道祖神」の呼び名も多くある。道反神、塞座大神、久那戸丈神、船戸神、道六神、性神、幸神、塞神・・・・・・

これは道路の要所にあり、道路安全の神であったが、子供達の守護神となり、更に男女生殖神となった。

大磯町の道祖神は、南下町内に、坂下、浜之町、大泊、子ノ神の4つあり、北下町内に、中宿、浅間、大北の3つある。

合計七個あるが、明治23年の大火を契機に南下町からの移転によってできた長者町も、明治45年からこの祭りに加わり八個となっ

た。


(一番息子と目一つ小僧)

この「左義長」という祭の皮切りは、12月8日に行われる「一番息子」と言う行事である。町内のすべてが行うのではないが、子供達

がトゲのある「ヒイラギ」の葉や、臭い鰯の頭を豆がらに刺し、戸口に挿したり下げたりして、悪病神を追い払って子供達を守る。

また年長の子供達は、陰陽のような形をした真ん中がくびれた石(ゴロ石)を縄で縛り、町内の家々を巡り、「○○さんに良い嫁さんが

来るように、一番息子、二番息子、三番息子」と歌いながら、または家人から頼まれた願い事を唱えながら、玄関先で次々に石を大

地に打ち付ける。そしていくらかのお賽銭をもらう。

お賽銭は世話人に渡される。世話人は豆腐やお菓子を買って子供達に馳走する。豆腐は子供達がマメに丈夫に育つように、湯豆腐

にするのは子供達の体を暖めるようにとのことである。


また、この日「目一つ小僧」と呼ばれる厄神が来るとも伝えられている。この小僧が村人の一年間の行いを帳面に付けてまわってい

たところ、夜が明けてしまって、慌てて帳面をセエノカミサン(道祖神)に預け、1月15日に取りに来ることを告げて帰っていった。

帳面を預かったセエノカミサンは、困ってしまい、自分の家とともに帳面を燃やしてしまったと伝えられている。

これが、セエトバレエの始まりと伝えられている。


(松のお仮屋)

 
正月の松の内を過ぎると、セエトバレエの準備が始まる。門松や注連飾りを集めて14日立てるセエトバレエのセエトつくりに備える

のである。普通は門松などは、正月七日の朝の「七草粥」が済んでから子供達が集めるのだが、どこよりも大きく立派なセエトを作る

にはたくさんの門松や注連縄を集めなくてはならない。他の地区も同様であるから、自分達の地区の松飾りが他の地域から盗まれ

ないようにと「松のお仮屋」を立て一晩中見張りをする。

自分たちの町内だけではなく、松飾が豊富であった上町や遠く平塚方面までも足をのばしたということである。

(松買い)

 
11日になると、松買いや竹買いのなどの準備が行われます。今は車があるので昔ほどの苦労はいらないと思うが、昔は大変だっ

たらしい。昔の松買いの様子は、以下のような様子だった。

 正月11日は、「松買い」といって、セエトの中心に立てる大松三本とオンベ(セエト)竹と称する、やはりセエトの中心に立てる大竹を

買いに早朝から松は平塚方面へ、竹は平塚旭地区へと出かけるのであった。

松買いメンバーは、宮の世話人と浜青年と子供達である。この日は、浜青年達にとっては、正月中で最も楽しい時でもあった。

それは、ここには平塚遊郭があって、日ごろ馴染の遊女に招待されるのか押しかけるのかは定かではないが、朝から入り込んで夕

方近くまで、何をしているのか、なかなか出てこないのである。

世話人と子供達は、海岸近くの松原で手頃な松の品定めと値段を折合って、持参したのこぎりや鉈などで松を切り倒して、運び手の

青年のお出ましを待つのだが、これがそのおいそれとは来てくれないのである。

仕方なく、手分けして遊郭へ迎えを出し、やっとのことで皆が揃うのは、陽も早や西に傾く頃になってしまうのである。

遊郭から出てきた浜青年たちは、可愛い遊女から贈られた襦袢姿に紅い腰紐、青だすきという出で立ちで現れ、御神酒の力を得て

国道一号線をひたすらに大磯まで運ばれていくのである。

当時の松は、現在の松とは比較にならないほど大きく、根元の直径は30cm、長さ10mほどもあるものを担いで運ぶのであるから、

だんまり歩きでは運べるものではない。

海で鍛えた声もよろしく、大磯甚句、伊勢音頭(左義長音頭)を歌いながら、神輿を担ぐ風情で運んで来る。

 ♪♪ どこでよー、染めたか、船頭衆の浴衣な、せえー、よいとせ、背中に帆をあげ、裾に波、いかりという字を紋に染め

        どこの質屋へ流すとも、花水川に流すとも、いかりよー、おろせば、やんで、流れはせぬぞ、やあとこ、せえー、よいとな

            ありありや、こりあ、これわのせえー、さあさやれさの、せえー、よいとな  ♪♪<伊勢音頭(左義長音頭)>


一方、留守班の世話人たちは、これも早朝からお仮屋を立てたり、道切り提灯を吊るしたりする。先着しているオンベ竹には、正月二

日に各家庭で作られた縫初めの色紙の金着、着物、半天等、五色の紙の吹流しや色紙で作った輪をつなげたくさり、子供達の書初

めなどが結び付けられ飾られる。

これらが14日のセエトバレエで燃えたとき、天高く上がると針仕事や、書道が上達するといわれている。

飾り付けが終った20mものこのオンベ竹は、道祖神のお仮屋付近に建てられ、風に流される吹流しは、いやおうなしに、お祭気分を

盛り上げる。

 ♪♪ そうー、らんえーえー、めでだ、めでたのえー、そら、よいとこせえー、よいやら、そーら、道祖神だぞえ、よいとなー   ♪♪
                                                                         
                                                                      <松前木遣り>

やがて、松の町内入りに歌われる松前木遣りが声高らかに歌われ「よいさ、よいさ」のかけ声で松を担いだ青年達が町内になだれ込

で来る。ひとしきり宮前で大磯甚句にあわせて練り歩き、所定の場所に下ろされ、大磯ジメで〆て解散となる。

(お仮屋と七七所まいりなど)

 
七七所(ななとこ)まいりとは、1月11日から13日まで大磯地区及び近郊の信心深い善男善女が、家内安全、無病息災等を願っ

て、下町の八箇所の道祖神の内の七箇所をお参りすることをいう。


道祖神は、通り沿いのお仮屋(約1坪半の仮小屋)の中に安置されていて、お仮屋の両側には門松を立て、その門松には、赤・緑・黄

の三色の色紙を貼ってつないだ幟り旗が数十本か奉納される。幟り旗には、「奉納道祖神」と書かれ、奉納者は新生児か幼児の

氏名が書かれている。

門松に並んで長提灯が左右1個づつ灯される。その脇で子供達が曲名「バタバタ」という大太鼓をたゆまなく打ち鳴らす。

昔、浜の町、大泊り、長者町では、その年の十二支を模した等身大の人形を作り、灯りを入れて飾り付けを行った。例えば、ネズミ年

らば伊達誠忠録の仁木弾正のように。だいたい、歌舞伎役等で馴染が深いものが多かった。

夜店も出て大変賑やかであったと伝えられているが、支那事変後は廃止となり、その後は復活していない。

お仮屋の中には、子供達が数人入って神のお守りをしている。お仮屋の前には、賽銭箱があって、人々が次々にお賽銭をあげてお

参りをする。


年長の子供達は「おかりこ」といって、新婚さんを象徴するオカメ・ヒヨットコの面を被り、宮の太鼓を叩いて町内外の商家や、新婚世

帯等をまわって「オカリコメデテ、お家はご繁盛、ご繁盛、ご繁盛」と大声で唄い踊って賽銭をもらってくる。

お仮屋の開帳は、夕暮れ近くから午後十時頃までである。昔は一晩に数百人もの参り人があって、賽銭の子供達への分け前は相当

ものになったという。その分け前やお参り人を目あてにラーメンの屋台が出てチャルメラを吹き鳴らす。寒い星空の下で、熱いラー

メンをふうふう言いながら食べるのは格別な美味しさがあり、屋台も大変繁盛したと言われる。


(セエトバレエとヤンナゴッコ)

 
14日は、いよいよ祭りの本番である。朝7時頃から松や竹、お飾りなどを北浜海岸に運びセエトバレエのオンベ(セエト)の組み立

てが始まる。オンベは9基立てられる。

その内訳は、南下町内の坂下、浜之町、大泊、子ノ神の4基、北下町内の中宿、浅間、大北の3基、それに、明治23年の大火を契

に南下町からの移転によってできた長者町も、明治45年からこの祭りに加わり8基となった。

近年は、山王町が付き合いまつりとして加わり全部で9基となった。

まず、各地区の古老の指導の下、北浜海岸の決められたところに穴を掘る。そこにお仮屋の横に立てられていたオンベ竹という、20

ほどの竹の先端部分に子供達が書いた書初め、五色の紙の吹流し、色紙で作った輪をつないだ鎖状のもの等が結び付けられい

るものをその穴に差込み根元を砂で埋め、四方から縄で固定する。

オンベ竹の適当な高さに心とうのある松を二本を結び、竹の根方には松買いで求めてきた大松を添えて立て、その周りに集めてきた

門松を円錐状になるように立てていく。積み終えた松やお飾りは、縄でぐるぐるとまわして崩れないように固定する。その上を地域の

人たち
がみんなで編んだ数十mもの注連飾りを幾重にもまわして、中身の松などが見えなくなるまで回して仕上げる。

最後に、綱で通した数十個のダルマを円錐の表面に取り付け、セエトに彩りを付ける。

ダルマは、この地方の風物である。正月に買い、今年の願い事を祈念し片目を入れる。暮れにもう一つの目を入れて願いの成就を感

謝するものである。昨年の願掛けが終った1個1個のダルマは、使命を果たしたようにニコニコと、セエトを訪れる人々を迎えてくれ

る。

仕上がったセエトは、綺麗な円錐形をしており、大竹がそれから伸び、竹の穂に飾られた吹流しや書初めなどが風に舞っている様子


は見事なものである。セエト作りは、15人ほどで3時間かかる。
午前7時から始まったセエト作りは、午前10時には、9基の殆どが完

成する。

各地区のセエトの前には、お仮屋から移された「道祖神」が安置され、午後7時からのセエトバレエを待っている。

これと同時に道祖神社の境内では道祖神の仮宮作りが行われている。これは30mほどの太綱を前後につないだ2m50cmほどの

橇の上に、厄病神を封じ込めてあるといわれる、縦横高さが50cmほどの木製の宮居を中央に置き、橇と一体化するように綱で縛

りつけ、宮居の全体をのの字編みという大変緻密な編みで覆い隠す。4人でやっても1日はかかると作業と言われる。

最近は、753編みという省略した編み方もされているようだ。

大北では、昼前には出来上がり、午後から神事があり、その後氏子6人に担がれて海岸の大北のセエトの前に据えられる。

浅間のものは浅間神社境内で作られた後、午後4時ごろセエト前に据えられる。

これでセエトバレエの準備とヤンナゴッコの準備が出来た事になる。

午後6時ごろのなると、あたりは急に暗くなり、気をつけて歩かないと、セエトをひっぱる綱に足を絡ませることにもなる。

発電機を用意してセエトをライトアップしている地区もある。大北と浅間、長者などがそうである。必然的に観客はこれらのセエトに集

って来て数百人がセエトをぐるりと取り巻く。

浅間のセエト近くでは、これをセエトの火で焼いて食べると、1年間風邪を引かないという、3mほどの竹の先に針金で円形に串刺しさ

れたダンゴが飛ぶように売れていた。

点火は午後7時、9基一斉に行われる。セエトに点火をする方向は、その年の恵方の方向からと決まっている。

あちこちで紅蓮の炎が立ち上り、セエトバレエが始まった。気が早い観客はもうダンゴを焼いている。

しばらくすると竹がはじける音がする。頃合を見計らって、セエトは古老の指図に従って、その年の恵方の方向に倒される。

白ふんどし姿の裸の若い衆(裸坊)が現れて、仮宮の橇を海に引いていく。ヤンナゴッコの始まりである。

海に3回、陸に3回の綱引きがあり最後は、陸に引き上げられ、仮宮は裸坊達の手で踏みつけられてめちゃくちゃに壊され、更にセエ

トの火で責めつける。さすがの疫病神も敵わずに、逃げ出してしまうそうである。

遠来の客も、だんごやきも一緒になって綱をとり「よいさ、よいさ」のかけ声で宮橇を引き出す。裸坊たちは、この橇にまたがって町内

へと曳かれてゆく。

道祖神社まで、途中で何箇所もとまりそこで木遣りや音頭が始まる。中には寒さで震える裸坊もいる。それを励まして肩を組み、皆が

助け合って寒夜の一時間あまりを曳かれていく。


 
♪♪ 金の柱に銀の網、大黒様が舵を取り、お恵比寿様が舞い遊ぶ

       舳先に船神大明神、綾と錦の帆を上げて、宝を俵に積み重ね、大磯港にはしり込む

 ♪♪ 紀州紀ノ国、みかんの出どこ、青いうちから見初められ、色づく頃にもぎ取られ、

      箱の中えと詰められて、紀州灘をば船出して、吉原女郎衆にみそめられ、かわをむかれてまる裸

 ♪♪ 伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、坊さんはじ巻耳で持つ、

      家の身上はカカで持つ、尾張名古屋は城で持つ

 ♪♪ ここのよ町内に豆腐屋が出来てな、小野の道風の云う事にゃ、朝もはよから起されて、私ほどいんがな者はない、

      水責め火責めに逢わされて、水責め火責めは、いとはねど、一丁小半と切り売られ

    そこでオカラの云う事にゃ、汁けの無いまで搾られて、一文二文のつかみ売り

      親は何処とたづぬれば 親は畑でまめに暮らす

                                                           <伊勢音頭(左義長音頭)>



いつしか、宮前。先ず、松前木遣り唄が声高々と歌われ、全員での合い手ばやしで気を揃え、迎えた太鼓が鳴り響く中、宮橇は一直

に宮入りする。

裸坊たちによって、世話人の胴上げや年男の胴上げが行われ、用意された縁台に酒と豆腐が運ばれる。

誰も彼もが豆腐を肴に乾杯して、大磯〆めで終りとなる。


裸坊は、迎えのバスで隣町の銭湯へ直行する。大磯には銭湯は無いそうである。

                                                    「大磯(下町)の左義長」より一部転載



<NIA取材記>

「大磯の左義長」は、神奈川県の5個ある国指定の無形民俗文化財の中の1つであって、昨年撮影する予定であったが雨が降り止ま

ず撮影を取りやめにした。ビデオカメラのレインコートを買えないので断念したのだった。ビデオカメラは、雨に弱い。水を被るといくら

高価なものでもダメになるのだ。余談ながら、あれから1年後の今は、やっとレインコートを手に入れることができたが。

ところで、昨年の14日は、雨の中で行われたとのこと。雨の中でもセエトはよく燃えたと地区責任者は語った。ヤンナゴッコの宿を訪

ね、「昨年は大変だったでしょう」と質問したら、「俺達は裸だから雨が降ろうと関係なか」と答えてくれた。そう言われればそうだが。

朝7時ごろからセエトを作るということ。私もその様子の取材のために、7時少し前に大磯町北浜海岸に到着した。

近くに有料だが県営駐車場がある。その第二駐車場に車を入れ、ビデオや三脚を担いで現場まで150mほどの距離を急いだ。

早朝の海岸は寒い、素手では手がかじかんでいう事をきかない。でも手袋をはめてでは操作ができない。寒さで震えながら撮影を行

った。この行事は、大磯町の町内各地で行われているが、大磯町内の南下町、北下町、長者町、最近は山王町で加わって、南下町

から4基、北下町からは3基、そして長者町、山王町からそれぞれ1基の合計9基が、それぞれの地域の古老の指導の下、手際よく

組み上げられていく。

大は60cmから少は5cmほどの、両目を開いたダルマ数十個が綱で通され出番を待っている様は、絵になったので、製作中のセエ

トを背景に入れてビデオ撮影をした。

この地域は、正月にダルマを買い、願い事をして片目を入れる。その年の暮れにもう1つの目を書き込んで、願い事がかなったことを

感謝するという風習がある。

日が西に沈みあたりが暗くなると、セエトの周りには観客で取り巻かれる。だんだん7時に近づくにつれて、人々の興奮が増してくる。

点火の様子を写真に収めようとプロ、アマ関係なく火口に近寄ってくる。点火されると、危ないぞと注意の声がかかるが、なかなか立

ち去らない。紅蓮の炎がゴーッと来ると、初めて危険を悟ったのか逃げていく。そのうちにヤンナゴッコが始まった。

大北の裸坊の宿を昼間訪問したので、その経緯もあり、大北のヤンナゴッコの様子を主に撮影した。

カメラマンが多いので思うように取れない。こちらがビデオライトを点すと、すぐビデオカメラの前にカメラマンが入り込んで来る。

この人達は、どんな考えで写真を撮っているのかと常識を疑うような人が多い。

途中で歌われる伊勢音頭は、なかなか面白い文句が多い。この地域の方言も入っているので分かりにくいところもあるが、大半の意

味は分かった。ヤンナゴッコは、午後8時が宮入である。なぜかというと、風呂行きバスが8時20分ごろ出るからである。

裸坊は、1月の夜中の寒風ですっかり冷え切っている。一刻でも早く風呂に入れてやらないと風邪を引いてしまう。いくら御神酒をい

ただいても寒さは防げない。

また、海岸へと戻ってみるとまだセエトは燃えていた。地元の親子ずれが何組もあちこちのセエトでダンゴを焼いている。

「美味しいですか」と子供さんに話しかけたら、ダンゴを1つ頂いた。甘いダンゴであった。

そういえば、夕方5時ごろ握り飯を食べただけで、今まで何も飲みを食いもせずにいたんだった。12時間以上もの取材はきつかっ

た。

すっかり暗闇となった海岸に、残り火が弱く揺らいでいる。ライトを消してしばらく一人砂浜に腰を下ろし、ぼんやりとした頭で、この祭

りの余韻を味わった。


       左義長の 紅蓮の炎 天空をこがし 顔かおかおが 道祖神ぞえ           理事長


やんなごっこ(二地区がすれ違う) 燃え盛るサイト やんなごっこ(伊勢音頭を唄う)
    
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