大虎の頭
この大虎頭は、横須賀の虎踊において使用されているもので、神社のお札800枚が使用されていると言う。虎目石という名の宝石があるが、この頭の目はまさしくそれである。
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小虎の頭
この小虎頭は、横須賀の虎踊において使用されているもので、唱和8年に新調された。
小学生達が虎に扮して舞うので大虎よりも小さめに作られている.。
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為朝神社
浦賀では最も新しい神社で、この神社の境内に向かって左側に特設舞台が設営され「虎踊」が行われる。為朝神社は、疫病(疱瘡)の治癒に霊験があり祭礼では神輿が人家を廻る。
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浦賀虎踊り保存会の会館
「虎踊」の練習や会合などがこの会館で行われる。祭礼の当日は、この会館前に山車が停められ、盛んにお囃子をかなで祭りの雰囲気を盛り立てる。この会館の向かって右が為朝神社。
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西叶神社
文覚上人が、源氏の再興を願って房総半島の鹿野山に修行し、 もし自分の願いが叶えられるなら、神社をたてることを誓った。 養和元年(1181)この願いが叶えられ、神社を建てる場所を探した結果、 頼朝ゆかりの千葉・鹿野山の対岸である西浦賀の地が選ばれ、ここに石清水八幡宮を勧請し叶神社とした。
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西叶神社の社殿彫刻
社殿をとりまくたくさんの彫刻は、後藤利兵衛という安房国(千葉県)の彫刻師の若い頃の作品で、 後藤はこれらの仕事が認められ、その後幕府の彫刻師となった。
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西叶神社の鏝絵(1)
社務所があるところは、江戸時代は不動明王を本尊とした感応院西栄寺という古義真言宗のお寺 があり、高野山から、南関東一円に配る御札や加持祈祷に使うものが送り届けられ、 それを配布する役目をしていました。 以下に続く
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西叶神社の鏝絵(2)
その社務所の正面の入り口の漆喰の白壁には、鏝絵と呼ばれる漆喰の絵が残っている。これは、左官が鏝のみで漆喰を塗り重ねて鶴亀などの縁起がよい図柄を描くものである。
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浦賀の渡し

ポンポン船の愛称で親しまれ、浦賀のシンボルとなっている渡船は、浦賀に奉行所が置かれて間もない享保10年頃から始まる長い歴史を持つ。昭和30年代後半には機械化された船による運行となった。

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浦賀の渡し船(1)
浦賀湾を挟む西浦賀と東浦賀を結ぶ渡し舟は赤と黒で色分けされた新造船「愛宕丸」で、平成10年に渡船就航120周年を記念して造られた。その時から浦賀海道と呼ばれるようになった。大人150円、小中学生50円、自転車、他50円
(バイクは不可) 幼児は2人で50円
所要時間 2分。 朝7時〜夕方6時 
12/31-1/3及び悪天候時以外、原則無休。
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浦賀の渡し船(2)
横須賀市の水上市道として. 浦賀港を東西に結ぶ渡し舟である。地元の人の日常に溶け込みその足として日々役に立っており浦賀のシンボルとなっている。この渡し舟は横須賀市の市道2073号線である。.
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咸臨丸出港の碑
幕府は、日米修好通商条約批准書交換のため、米軍艦ポーハタン号で新見豊前守正興を代表とする使節団をワシントンへ送ることにした。幕府は、万が一の事故に備えて、軍艦奉行木村囁津守喜毅を指揮者に、勝麟太郎以下九十有余名の日本人乗組員で運航する咸臨丸は、品川沖で錨(いかり)をあげ十六日の夕刻、浦賀に入港し二日間、食料や燃料、その他の航海準備作業が行われた。意気天をつく若者たちを乗せた咸臨丸は、1月19日午後3時30分、浦賀港を出帆した。不安に満ちた初めての経験と、荒天の中を、三十九日間かけて、咸臨丸は無事サンフランシスコに入港しました。咸臨丸太平洋横断の壮挙を永く後世に伝えるため、サンフランシスコに建てられた「咸臨丸入港の碑」と向かい合うように、ゆかりの深いこの地に建てられたものである。 愛宕山公園の頂上付近にある。
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与謝野夫妻歌碑
碑の歌は、昭和10年3月3日与謝野寛(号・鉄幹)、晶子夫妻が同人たちとともに、観音崎、浦賀、久里浜を吟行した折り詠んだものである。思いのほかの寒さであったためか、寛は同月26日肺炎で没しているので、これは生涯最後の歌の一つといえる。
愛宕山公園の頂上付近にある。
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東叶神社
愛宕山公園の頂上付近から撮影した東叶神社である。珍しい親子の狛犬がいる神社で、御祭神は誉田別尊(応神天皇)。社殿手前の石段には、源頼朝が伊豆より移植奉納したといわれるソテツがある。裏山の上には、勝海舟断食の碑があったり、浦賀城城跡がある。
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ペリー上陸記念碑
嘉永6年6月9日(1853年7月14日)、アメリカ合衆国東インド艦隊司令官ペリー提督が 日本上陸の第一歩をしるし、浦賀奉行・戸田伊豆守が合衆国大統領の国書を受け取り、応接した場所に上陸記念碑が建っている。
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取材日:2009年6月13日
大虎と小虎の頭 鎮西八郎為朝神社 和藤内によって従えられた大虎

<無形民俗文化財情報>


<無形民俗文化財の名称>横須賀の虎踊(よこすかのとらおどり)

<種別及び指定日>国選択無形民俗文化財(選択日2004年2月6日)  野比中村の虎踊も同時に選択された

           神奈川県指定無形民俗文化財(指定日1976年10月19日)

<所有者・管理者> 浦賀虎踊り保存会

<問合せ先>浦賀市教育委員会生涯学習課 TEL:046−822−8484


<公開情報>

<公開日>毎年6月の第2土曜日

<公開地>鎮西八郎為朝神社(神奈川県横須賀市西浦賀4−12)の特設ステージ

<イベント>鎮西八郎為朝神社祭礼の宵宮に虎踊りが行われる。本宮は次の日で神輿が町内を巡行し悪疫を退散する。

<時間>19:30〜21:00 、屋外特設舞台のため雨天中止

<交通>京急「浦賀駅」下車、バス〔久10〕「紺屋町」下車、徒歩10分

     京急「浦賀駅」下車、バス〔千代ヶ崎経由久里浜行き〕「西浦賀町4丁目」下車、徒歩2分

     京急「久里浜駅」下車、バス〔久19〕「西浦賀町4丁目」下車、徒歩2分

<駐車場>為朝神社近く(徒歩1分程度)の「西浦賀海岸公園」の全体が臨時駐車場(無料・40台程度)になる。

<トイレ>「西浦賀海岸公園」内に常設トイレがある。

<飲食>為朝神社近く(徒歩1分程度)にコンビニがある。浦賀文化センター近くに生協COOP(為朝神社より車で3分ほど)がある。


<黒船来航と浦賀について>

浦賀は、三浦半島の東部に位置し、東京湾の湾口部であって、浦賀水道に面する。南南東から北北西へと深く海が切れ込み、浦賀

港として利用されている。三浦半島の中では比較的早くから発展した地域であり、江戸時代には江戸湾の入り口に位置することから

湾に出入りする船が必ず寄港する要衝となり隆盛を極め廻船問屋や干鰯問屋が軒を連ねた。外国船の日本近海の出没もあって、

1720年には江戸湾の警備の為に浦賀奉行所が下田から移され、たびたび日本近海に出没するようになった異国船から江戸を防

備するため浦賀砲台も整備されていた。

嘉永6年(1853)6月、浦賀沖にアメリカ東インド艦隊司令官マシュー・カルブレイス・ペリーが率いる4隻(旗艦サスケハナ号、ミシシ

ッピ号、サラトガ号、プリマス号)のアメリカ軍艦が投錨した。最初、庶民はのんきに構え、見物のため浦賀に繰り出し、中には船を仕

立てて近くから見ようとする者もいたという。しかし、黒船が江戸を砲撃するかもしれないという噂話が広がり、武士や町民に対して、「

十分に警戒するように」とのお触れが出た。

日本に国交を求める外国はアメリカだけではなかった。幕府は「外国船打ち払い令」を出し、鎖国を理由に頑なに国交を拒んできた経

緯があるので、この度の黒船の来航は、幕府にとって思いもよらなかった出来事ではなかった。

実のところ、幕府のとった対応策は、三浦半島に彦根藩からの防備の兵を増やした程度だった。つまり、今までの外国船のように帰

ってもらおうとしか考えていなかったようである。

しかし、ペリーは日本人を徹底して研究し、事柄を先送りにしてうやむやにする日本の外交手段を知り、強硬な態度で、必要なら武力

を見せ付ける交渉方針を貫いた。この時のペリーの要求は、アメリカ大統領フィルモアの国書を渡すことであった。幕府は国書を受

け取り、早く帰ってもらいたいので、浦賀奉行所の与力・中島三郎助が国書を受け取りにペリーの船を訪れるが拒否された。同じく香

山栄左衛門も訪れるが、国書を受け取る事はできなかった。そこで上の者と話してみるので4日の猶予をくれるように頼んだが3日な

ら待とうという返答であった。さらに国書をしかるべき権限がある者が受け取らないのであれば、江戸湾を北上し、兵を率いて上陸し、

将軍に直接手渡しすると脅しをかけた。結局、幕府の要人が国書を受け取るぐらいは仕方ないだろうとの結論に至ったのが嘉永6年

6月6日であった。嘉永6年6月9日(1853年7月14日)にペリー提督等は、近隣の久里浜(現横須賀市で当時は小さな漁村)に上陸

することが許可され、浦賀奉行所・戸田伊豆守がアメリカ大統領フィルモアの国書を受け取り応接した。

このためぺりー上陸の記念碑や記念館は久里浜にあるが、一般に来航地は浦賀とされている。

 こうして、来年さらに大規模な艦隊を率いて国書に対する返事を聞きに来ると言い残してペリーは去っていった。

嘉永7年(1854年)1月、ペリーは再来航した。 その頃、西浦賀の吉川屋と浦賀の旅籠の草分けである東浦賀の徳田屋は、多くの

武士や文化人が宿泊したことが判っているが、「松下村塾」の吉田松陰達はこの徳田屋に宿泊し主人からの情報を元に、師の佐久

間象山やその門下生達と今後の日本のとるべき方向などを語り合ったとされ、アメリカへの密航計画を実行に移した。この密航計画

を知り松陰に強く願い出た長州藩足軽・金子重之助とともに密航を企てることになる。

松陰と金子重輔はペリーの船に乗り込もうといろいろ手を尽くし、走り回ったがことごとく失敗。最後には、下田に移動したペリーの船

に、夜間、小舟をこぎ寄せた。旗艦ポーハタン号上で、主席通訳官ウィリアムスと漢文で筆談し、アメリカ渡航の希望を伝えるが、アメ

リカと日本は条約を結んだばかりで、お互いの法律を守る義務があり、ペリー側は、松陰たちの必死の頼みにも渡航を拒絶した。松

陰達は乗って来た小船を流してしまい、アメリカの軍艦に積んである小船で送り返えされた。松陰達が乗って来た小船には身元がわ

かる書類などが乗せてあったので、いづれ幕府に捕まると思い、松陰と金子は自首し、江戸伝馬町の牢屋に入れられた。その後、萩

に送還され、松陰は士分が入れられる野山獄、金子は岩倉獄へと投獄された。その後、金子重輔は劣悪な環境の岩倉獄で25歳と

いう若さで病死した。それから1年2か月が経ち、野山獄を出た松陰は藩から自宅謹慎を命じられ、実家の杉家に「幽囚」の身として

戻った。出獄後、松陰は自宅に設けられた幽囚室で、親族・近隣の者を相手に「孟子」の講義を再開した。幽囚室での「孟子」講義

は、単なる解説ではなく、松陰独自の解釈で高い評判となり、次第に萩城下に広がっていくこととなる。その頃、松陰の叔父・玉木文

之進が開いた松下村塾は、近所で塾を営む久保五郎左衛門が名前を引き継いでいたが、松陰が塾の主となる。当初は3畳という僅

かな幽囚室で行なわれていたものの、受講するものが増え杉家の納屋を塾舎に改修。ここに世に有名な松下村塾が誕生した。その

後、松下村塾の存在は萩城下に知れ渡り、萩だけでなく、長州藩全体から才能ある若者達が集うようになった。

安政6年(1859年)5月25日早朝、松陰は野山獄から護送用の籠に入れられ江戸に向かうこととなった。松陰が江戸に送られた理

由は、安政の大獄で獄死した梅田雲浜が萩で松陰に会った事を話したためだった。江戸の評定所が松陰に問いただしたのは、梅田

雲浜と話した内容と、京の御所に文書を置いたのではないかという2点であったが、松陰の主張は受け入れられた。そこで、松陰は

幕府に自分の意見を言う絶好の機会だと捉え、「間部詮勝要撃計画」をも告白してしまう。人間を絶対的に信用し、必ず自分の思い

は届くはずだと考えた松陰ゆえの告白であったが、幕府評定所の役人は予想もしなかった老中暗殺計画に驚愕した。安政6年(18

59年)10月27日、評定所から「死罪」が言い渡され、即日処刑が行なわれた。吉田松陰、30歳であった。

話は逸れたが、幕府は返答を引き伸ばそうとしたが、ペリーの軍事力に屈する形で、安政元年(1854年)3月3日、日米和親条約締

結にいたった。その後1860年には勝海舟の率いる軍艦、咸臨丸が浦賀港より出港して、太平洋を横断した。

<鎮西八郎為朝神社について>


 浦賀では最も新しい神社である。名前の通り「源為朝」を祀った神社である。創建は1820年頃。前述したように浦賀は猟師の町で

あった。1800年、浜町(西浦賀4丁目)の漁民が海を漂流していた為朝の木造を拾い上げ地蔵堂に安置したといわれている。

源為朝は源為義の八男で武勇に格別に優れていた。幼小から荒武者の片鱗を現し、武芸は何でも達者であったが、とりわけ弓の名

手であった。13才の時、粗暴な行いにより為義に勘当され九州に追放された。しかし豊後の阿蘇氏の婿になるやいなや九州の武士

を従えるべく各地を転戦し自ら鎮西の追捕使を僭称した。これを告訴され、朝廷より召喚を命じられたが応じなかったために父為義

は官職を解かれてしまった。その報告を受けると自ら罪を受けようとわずか十八騎の手勢だけを率いて上洛した。そこで遭遇したの

が「保元の乱」である。

保元元年(1156)7月11日未明、後白河天皇の命を受けた平清盛・源義朝らが 崇徳上皇の命を受けて事を起こそうとしていた源為

義・源為朝・平忠正らの 集結場所を急襲しこれを制した。結局、為朝は伊豆大島に流罪になった。一矢で2人を射殺すほどの強弓で

有名な人物であったので、腕の筋を切られての配流となった。傷が癒えると相変わらず粗暴な性格は静まらずやがて伊豆諸島を従

え国司に反抗するようになった。そして追討軍を迎え撃ち、大島で自害したと言われている。

天満宮の菅原道真もそうであるが、恨みを残して死んだ人の怨霊は大きな害をもたらすので、人々は神として祀ることで霊を癒し、そ

の代わりに、為朝を疫神とし、疱瘡の病を怨霊の力で治してもらおうと神社を創建した。

<横須賀の虎踊の内容説明>

 前述したように、1720年、伊豆の下田から奉行所が移転し浦賀奉行所が出来たとき、60軒ほどの問屋もやってきたと言う。下田

で行われていた虎舞を浦賀でもやりたくて下田に教えを請いていたが、「虎踊」が伝承されるのはこれより70〜80年後となる。

浦賀の虎踊には、唐子踊りが加わる。この唐子踊りは、大阪の芝居小屋で坂東三津五郎という歌舞伎役者が踊っていたものを浦賀

の人達が見て、これを覚えて、浦賀で唐子踊りの振り付けをしたといわれている。これは面白いと、逆に下田の方に伝わった。虎踊は

下田から来たが、唐子踊りは下田に伝わったのである。

さて、囃子が演奏される中、小学男児が扮する和藤内(わとうない)が床机に座る。この和藤内と言う人は実在し名前は滑稽である。

中国人の父と日本人の母との間に生まれたということで、和(日本)でも藤(中国の唐)でも内(ない)という洒落である。

近松門左衛門が書いた人形浄瑠璃の「国姓爺(こくせんや)合戦」には、この和藤内が主人公で出てくる。日本から唐(中国)に渡り、

明朝の再興を図る途中、竹林で虎を生け捕りにする場面がある。虎踊は、この「国姓爺合戦」を題材にしているのである。

和藤内は床机から立ち上がり、三度床を踏み鳴らし、「虎狩りの間、踊りの一手(ひとで)が所望じゃ、所望じゃ」と踊りを乞う。すると

大唐人が10人ほどの唐子(小学1年から中学1年までの女児童)を引きつれ、唐子踊りが始まる。このとき唄われるものは「テレレ

ツ」「レーゲル」「チャチャラ」の3つほどある。

「テレレツ」は〔伊勢の神風ほどよく吹けば浦賀湊は船ばかり・・・・・・〕といった歌詞である。

「レーゲル」は〔レーゲルカンロンオース エンエン ブツブツ・・・・・・〕といった歌詞で解読されていない。

「チャチャラ」は〔チャチャーラ、チャチャーラ、チンカラケンブリ、オケケンケラケン・・・・・・〕といった歌詞でこれも解読されていない。

踊りが終ると、大小2匹の虎が登場する。大虎は踊りながら「一本杉」「虎返し」「鶴の飴拾い」「しっちょい」といった芸をする。虎の胴

は重くて通風が良くないし、舞手の下半身は虎毛をつけた厚手の足をつけての舞であるので重労働である。

最後は、和藤内が床机から立ち上がり、虎の頭を押さえて、右手に持った叶明神のお札を頭上に掲げ「アリャアリャ、ありがたや、叶

明神(かのうみょうじん)の威徳をもって、虎もやすやす従えたり。皆々勇んで、カッピキュー」と見栄を切ったところで舞は終る。

ところで、なぜ「叶明神の威徳を持って」なのであろうか。「為朝神社の威徳を持って」の誤りではないのだろうか?

前述したように虎踊が浦賀で始まった頃には、この為朝神社はなかったのである。為朝神社は浦賀の中では最も新しい神社である。

当時、浦賀で最も隆盛を極めていたのが叶神社であった。したがい、この神社の威徳と虎踊を融合させたものである。後にこの叶神

社の祀神を勧進し東叶神社が出来たが、このとき叶神社は西叶神社と名前を変えた経緯がある。

現在の浦賀の虎踊は、為朝神社の境内に特設舞台を設けて踊られるが、以前は西叶神社への奉納もあったようである。


<NIA取材記>


 浦賀と聞けばペリー来航、黒船を思い出す。教科書でしか知らない浦賀での虎踊の取材とあって興味がそそられた。為朝神社は海

沿いの道にあるコンビニの裏手通りにある。現場到着は13時ごろであった。保存会の人に駐車場はありますかと訊ねたところ、近く

の「西浦賀海岸公園」全体が臨時駐車場になっているとのこと。早速、そこへ移動した。まだ時間が早いせいもあって、5〜6台の車

しかなかった。昼食もそこそこに、保存会長さんに挨拶に行き、為朝神社外形の撮影を行った。神社は数十m四方に収まるような無

駄がないつくりで、虎踊の舞台は、社殿左方に特設されていた。「ここで、虎が踊るの!」と思うような小さな舞台であった。

神社の前の道を挟んで浜町町内会館があり浦賀虎踊り保存会の本部も併設されていた。その中では、大虎を演じる2人の男性が最

後の練習をされていたので撮影させていただいた。大虎は踊りながら「一本杉」「虎返し」「鶴の飴拾い」「しっちょい」といった芸をする

「一本杉」や「虎返し」は、相手を抱え上げてなくてはならない。練習でも汗だくになるのだから大変だ。本番は風通しが悪い虎の胴を

被り、下半身もストッキングのように足先までも包む虎足をはき、そして虎の頭を手に持っての舞うのである。

19時30分頃から本番ということである。神社内での撮影位置を決め三脚を設営して、ビデオカメラだけを持って周辺を歩き回った。

西叶神社(漆喰壁に鏝絵が施されている・彫刻が見事である)、浦賀奉行所跡(ほとんど何も残っていない)、浦賀ドッグ(かっての活

気はない)、浦賀の渡し(西浦賀と東浦賀を結ぶ海上道・人や自転車を運ぶ・有料)・・・。

時間があれば、浦賀の渡しに乗って東浦賀の方に行ってみたかったが今回は見送った。東浦賀の方には、西に劣らずたくさんの旧

跡がある。また久里浜の方にはぺりー上陸の記念碑があるので再度近日中に訪問したいと思った。

18時30分頃、神社に戻って来た。もう境内はかなりの人出で、カラオケや踊りなどが行われていた。日が落ち、だんだんとあたりが

暗くなる。それに伴って、こちらはカメラのホワイトバランス調整に忙しかった。いろんな光が舞台にあたっているのである。白が白に

見えるように調整するのは大変(舞台上に白がなかった)だった。

定刻、政治家の人達の挨拶に続いて、次回衆議院選に立候補予定の小泉元首相のご子息のご挨拶もあった。高畑保存会長、山本

郷土史家の話の後、いよいよ虎踊が始まった。唐子踊りは歌と囃子に調和して独特の雰囲気を醸し出し新鮮であった。虎の踊りは大

小二匹が舞うが、小虎の方は小学生であり体力的に大丈夫かと心配されたが、大虎に寄り添うしぐさなど難なく舞納め賞賛された。

大虎は、練習の成果を上げ、芸も無難にこなし、観衆からたくさんの拍手をもらっての堂々とした退場であった。

虎踊jは国の選択無形民俗文化財でもあり神奈川県指定無形民俗文化財でもある。前者では「横須賀の虎踊」で登録され、後者では

「虎踊」として登録されている。虎踊は浦賀だけで伝承されているのではないので、地名を取って「浦賀虎踊り」とも呼んでいる。

                                                                2009.6.25 理事長記す

唐子達の踊り 大虎と小虎の踊り 大唐人と唐子達
  
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