三本の矢を放つ 天神堀と中ノ島 御供を納める

<無形民俗文化財情報>

<名称> 八丁島の御供納くはっちょうじまのごくおさめ)

<種別及び指定日> 久留米市指定無形民俗文化財(指定日1985年6月26日)

<所有者・管理者> 八丁島御供納保存会

<問合せ先> 久留米市文化観光部文化財保護課  TEL0942-30-9225

<出版物>調査中



<公開情報>

<公開日>毎年12月中旬の土日(2010年は12月11日、12日)

<時  間> 土曜日
       18:00〜 お潮井汲み
       23:30〜 天満神社を出て、歩いて10分程のところにある水路まで行き、神事の後で子供たちが禊をする
       
       日曜日
       15:00〜 天満神社で神事があり、天神堀に向かって白装束に身を包んだ人々の行列がある
       16:30〜 天神堀で御供納の神事が行われる

<公開地>天満神社及び天神堀(福岡県久留米市宮の陣町八丁島)周辺

<交  通>西鉄電車甘木線「古賀茶屋駅」下車、徒歩8分

<車の場合>九州自動車道「久留米IC」より20分ほど

<駐車場>天満神社に10台程度の無料駐車場あり、天神堀にはない

<食  事>弁当持参されたし

<温  泉>久留米温泉がある


八丁島の御供納の内容説明>


 
由来は明らかではないが300年以上の歴史があるという。旧11月15日にこの地区で行われていた「収穫祭」と地元で語り告がれていた「おかねの恩返し」と「菊姫物語」の伝説にまつわる魔払いの行事が一緒になったものと思われる。

「おかねの恩返し」
  昔、八丁島村で徳松爺さんが婆さんと二人で旅籠を営んでいた。そんなとき、若い娘がこの旅籠で働かせてくれと頼んできた。娘の名は「おかね」といい朝早くら夜遅くまでよく働いた。そんな折、吾助という若者が泊り客として現れた。吾助は諸国を歩く薬売りだったが、お茶を運んできたおかねを見て一目惚れ。仲立ちを頼まれた爺さんがおかねに打診すると、二つ返事で話はまとまった。吾助は薬売りをやめてお兼といっしょに旅籠の離れで住むことになり周囲の評判になる程に仲むつまじい夫婦となった。
1年もしたらおかねは玉のような男の子を産み落とした。その頃からおかねの夜歩が多くなり不思議に思った吾助が、ある夜おかねの後をつけて行きました。おかねは、後をつけられているのに気づかず池の近くで大蛇に姿を変えて池の中に入って行くのを見て、吾助は驚いて家に逃げ帰った。
 後を追ってきたおかねは泣きながら「私は天神堀に住んでいる大蛇です。私が小さい時、人間の世界を見ようとして堀から出てきたところ、子供たちに捕まえられて殺されそうになりました。その時に貴方が通りかかって私を助けてくれました。そこで御恩返しをしようと娘の姿になって貴方がきっとお泊りになる旅籠で働いて待っていたのです。貴方があまりにやさしいので、自分が大蛇であることも忘れて夫婦になり、子まで出来てしまいました。ですが、私の本性を貴方に見られたからにはもう一緒に住むことは出来ません。今夜でお別れします。」と語る。吾助は「何とか思い止まってくれ。」と説得するが、おかねはきれいな玉を1つ吾助に差し出して「もしこの子が泣く時にはこの玉をシャブらせてください。」と言い残し、泣きながら堀に入っていった。


おかねが旅籠の離れから姿を消して十日もたったある日、今度は吾助と赤ん坊の姿が見えなくなった。徳松爺さんの号令で村総出の捜索をしたところ、天神掘の中の島に父子の遺体が打ち上げられているのが見つかった。「いったい、何があったんじゃ、誰か心当たりがあるものはおらんのか?」 徳松爺さんが恐ろしい顔をして村人たちを睨みつけた。すると後方に立っていた一作という男が恐る恐る進み出た。「実は、わしが赤ん坊の珠を盗んだんだ。あの珠を持つとよかこつがあるち聞いたもんで、つい出来心で。」「馬鹿たれ、あれは赤ん坊のおっぱいたい。おっぱいを取り上げたら乳飲み子は一日も生きてはおれんこつがわからんのか」珠を盗んだ一作はさんざん爺さんに叱られ、村人から小突かれて、仕方なく盗んだ珠をさし出した。「それにしても、この手毬のごつ大きな珠はいったい何じゃろう? どう見てもおっかさんのおっぱいには見えんが。」

 
それから村に不幸が続く。日照りが続き、病気が流行り、多くの者が死んだ。村では何故こんなに不幸が続くのか原因が判らず、祈祷師に頼んで祈ってもらったところ「堀の主の崇りじゃ。毎年12月に10才になる男の子を1人ずつ堀の主に人身御供すれば、その翌年は無事であろう。」とのお告げが出た。そこで1年に1人ずつ10才になる男の子を人身御供で堀に沈めることになった。しかし子供があまりに可哀想なので、村の者が全国行脚のお坊さんに事の成り行きを話したところ、お坊さんが言うには「米三石三斗を人身御供の代わりに堀に供えよ」とのことであった。言われたとおり村人がお米を出し合い堀に米をお供えしたら、翌年は五穀豊穣であったという。そこで、八丁島の村では、この御供納の行事を毎年続け今に至っているとの事である

(御供納の行事内容)
 
八丁島には七つの座があり、七年に一回廻ってくる座の男児が真夜中に川で身を清め、天満神社境内にある集会所を精進小屋としてお篭もりを行い、午後、天満神社で神事があった後、ここから10分ほどの天神堀に向かって行列をつくって進む。
天神堀に着くとすぐに堀横の祠で神事があり、いよいよ神主、男児とその父親、船頭が舟に乗り込み天神堀の中央にある中ノ島の周りを右回りにゆっくりと回り始める。神主のすぐ前には三升三合の玄米が布に包まれ、竹で荒く編んだ籠の中に入れられ、浅い木桶の中に置かれている。
舟が二周目の後半に入る頃、神主は竹篭を右手で持ち、水面を滑らせながら三周目に入る。三 周目の中ごろ神主は、弓の射手に合図を送り、「エイ」の気合もろとも竹篭を堀に沈める。弓の射手は次々に三本の矢を中ノ島めがけて放ち、大蛇の怒りを封じる。


<NIA取材記>


八丁島には九州一の大河筑後川及びその支流である太刀洗川が流れ、その名の通り「島」であった。あちこちに堀や沼が多い地形であったこの地区は、現在は広大な優良農地と様変わりし、減反政策のために大豆畑も多い。
この地域を通る道は、参勤交代の重要な街道であって茶店が軒を連ねていたという。西鉄電車の駅に「古賀茶屋」とあるが、その名残で、この街道は「北野天満宮」の二の鳥居前で急に左折しているので、天満宮は参詣者が多かったという。
さて、御供納であるが、今ではこの地域しか伝承されていないが、かっては久留米市の「水天宮」でも同様な行事が行われていたという。行事は2日間で行われる。一日目は注連縄を取り付けたりお籠もりの準備をする。本年の人身御供役になるのは2名の男児である。
この八丁島には七地区あって、1年ごとに順送りでこの行事を遂行していくことになっている。次に担当するのは7年後、また少子化のため、人身御供役になる男児の確保が難しいとの事であった。全く該当者がいない地区もあるという。
この人身御供役になる男児は、真夜中、12月の寒中に水に浸かって禊をしなければならない。この様子も撮影を行ったが、畑の真ん中の水路、あたりは霜で真っ白で寒風吹きすさぶ中では、カメラのレンズが曇ってしまってレンズを拭いても全く効果なしで、引きの画が全く撮れなかった。アップ気味で最低限度の映像を確保できたのは幸いであった。
二日目、行事は午後三時ごろの神事から始まった。神事が終わると水払い、塩清めを先頭に神主、男児、男児の父親、三升三合の玄米を入れた箱担ぎ、その他の行事関係者が天神堀の道を厳かに列をつくって進んで行く。昔なら、泣き叫び、すすり泣きの声が沿道に満ち溢れるところであるが、現在ではとても明るい行事となっている。

ただ、天神堀という名前の印象からすると、あたりは樹木で覆われ暗くて気味悪い大きな堀を連想しがちであるが、田畑の区画整理や道路整備のため、昔は大きかったらしいが現在は20m四方の小さい堀となっている。「ここが天神堀ですよ」と教えられない限り通り過ぎてしまうかも知れない。
                                                     2011年1月14日  池松 卓成


 
天神堀の横にある祠 天満神社 真夜中の禊の様子
無断転載を禁じます
取材日:2010年12月12日他

動画は Windows Media Player でご覧いただけます

動画と音声は、自動的にスタートしますが、

容量が大きいので30秒程の時間が必要です。

先に下の文化財内容説明をご覧ください。

公開日時は、変更になることがありますので

 事前に確認されてお出かけ下さい。